私は今、私しかいないアパートの一室でただ不安と闘っている。
なにへの不安なのか。そう、卒業後の進路への不安だ。
今現在、大学三年の夏休みを過ごしている。
私は、文学部の英文学科に所属している。文学、言語学、比較文化、英語教育と枝分かれする中で英語教育のゼミに所属し、中高の英語教育や第二言語習得を専門にしている(ということになっている、と言った方が現状に合っているかもしれない)。
先にも書いたように今は大学三年の夏休みだ(そしてもう後期が始まろうとしている)。同級生たちがインターンや就活、公務員試験や教員採用試験に向けて行動を起こす時期でもある。私のゼミは教員を志す人が九割を占めているため、教採が三年生で行われる自治体を受験する人はすでに受験を終え、本命に向けての対策を始めていると聞く。前期のゼミの教室には、もうすでに指導教員に教採の二次試験の面接や模擬授業に関して相談する声であふれていた。
そんな中、私はどうしようもない疎外感を感じている。
"私は何をしているのだろうか”
もともと、英語の教員になるためにこの大学を受験し、今のゼミを選んだ。入学時の想定なら、今ごろみんなと同じように教採の勉強に明け暮れていただろう。それなのにどういうわけか、教採の勉強などする気が起きないでいる。もっと言うならば、卒業してすぐに教員になる気など起こらないでいる。自分でも驚きだ。
教員という仕事に魅力を感じていないわけではない。中学生のころからあこがれていた職業ではあるし、実際そこに向けて少しずつでも歩みを進めてきた。それなのに、教員になるために教育基本法を暗記したり、指導法の勉強をしたりすることに価値を感じないし、そこに時間をかけることを無駄だとすら思ってしまう。それよりもむしろ、自分の生に直結していることをより専門的に学びたいという思いが強い。そう、いまの私が思い描いている進路は、進学だ。
二年の後期に、一般教養科目のジェンダーの講義を受講したことをきっかけに、私はこの社会によって自分の生/性がいかに抑圧されているのか、そして私自身が、無自覚にどれだけ多くの人を排除しているのかということに気づかされた(この講義は本当に私の人生を変えてくれたものなので、いつかちゃんと文章にしたい)。そこでは、私のような存在(トランスジェンダー、同性愛者)を含め、あらゆる性的マイノリティの存在が抹消されることなく、「あたりまえに存在しているもの」として想定されていた。その空間にいることがただ心地よく、唯一の安心できる場所だった。そんな環境のなかで、フェミニズムやクィア・スタディーズなど私にとって新しく、刺激的なことを多く学んだ。そのとき、これこそが私が学びたいことなのだと強く思った。
勉強し始めてからもうすぐ一年が経つが、その間に自分なりにさまざまな文献にあたり、講演会に参加した。そのときは院進を現実的に考えていたわけではなく、ただがむしゃらに自分の生/性を肯定できる道を探す、そんな感覚だった。
しかし、ある講演をきっかけに院進を現実的に考えるようになった。その講演では、「他者に説明するためではない、私の語り」の可能性を探るものがトランスジェンダー・スタディーズの由来であるということが強調されていた。既存の理論的枠組みの中で、「私の感覚」がリアルに反映されていないと感じてきたこと。それでも、他者に「分かってもらう」ためにその理論に頼らざるを得ないということ。いつだって「私にとっての私の身体」の居場所はないと感じていたこと。アイデンティティを引き受けることなんてできっこないと思っていたこと。そのすべてを想いを晴らすかのように、その講演はわたしの心に響いた。「私の語り」 その可能性を探るために、専門的に勉強したい。なぜなら、強く内面化したトランス/ホモファビアのために拒絶し続けてきた自分の「アイデンティティ」というものを引き受ける、そして「私の身体」を引き受け直すという試みにおいて理論を学ぶことは私にとって不可欠であると感じているからだ。
言い換えるならば、まさにこの社会で生き延びるために、私は大学院に進学したいと思っている。
しかし、そう簡単にはいかないことも分かっている。
そもそも大学に進学すること、そして四年間通い続けることさえギリギリであるという経済状況がある。奨学金を借り、扶養内ギリギリまでバイトをして過ごしている。そんな中でさらに進学となると当たり前だがお金がかかる。家族は頼れない。「私の身体」を維持し、取り戻すためにも費用がかかる。果たして今のようにバイトをしながら、研究ができるのだろうか。
そして、進学したいと言っても当たり前だが、試験がある。学部でまったく違うことを勉強してきて、学部時代から専門に勉強してきた人とたたかえるのだろうか。基礎学力は本当にない。本を読むのも遅ければ、理解力もない。何度も何度も読み返しても理解できるのは三割程度。文章を書くのも得意ではない(だからブログをはじめた)。そんな人間が試験に受かることが果たしてできるのだろうか。そして、卒業までに戸籍を変えられる目処はたっていない。ジェンダー研究者でさえ、トランスを排除するアカデミアの世界で、差別されないと言いきれるだろうか。
また「どの分野で何が研究したいのか」はっきりしていないことも私を足踏みさせる理由のひとつとしてある。社会学なのか、哲学なのか。そして、トランスジェンダーに関わる研究がしたいといっても、トランスの身体についてなのか、トランス男性の男性性についてなのか、トランス排除言説についてなのか、、、。なにもはっきりしていない。
それでも、理論にしがみついていなければ私の生は簡単に否定され、なかったことにされる。他者からだけではなく、自分自身からも。だからこそ、そんな社会のなかでサバイヴしていくために、私はわたしを語る言葉を必要としている。その思いの強さは、私の強みになると信じている。
この先の私の人生がどんなものになるのか、今はまだ分からない。
周りの声に焦らされることもあるだろう。「その程度の覚悟で」と否定されることもあるだろう。それでも、私は"わたし”としてこの社会で生きていくために、その方法を探し続けるのだと思う。
いつか振り返ったときに、この取り乱しを忘れないように、私はわたしの生存の"あしあと“を記録する。